高祖日蓮大士

高祖日蓮大士(こうそにちれんだいじ)について

貞応元年(じょうおうがんねん)(西暦1222年)2月16日、安房国(あわのくに)(現在の千葉県)長峡郡東条郷片海小湊(ながさごおりとうじようのごうかたみこみなと)でご誕生。幼名善日麿(ぜんにちまろ)。一説に聖父は貫名次郎重忠(ぬきなじろうしげただ)、聖母は梅菊(うめぎく)と言われ、権頭(ごんのかみ)と呼ばれる有力漁民であったとも伝えられ、遠く下総(しもふさ)の御家人ないし被官(ひかん)とされる富木(とき)家との関わりを持ち、小湊近隣の領家(りょうけ)からの庇護(ひご)を受けるなど、聖人のご出自の高さがうかがえる伝聞(でんぶん)もありますが、聖人御自身は一般庶民にその身を同(どう)じられて詳しくは語っておられません。

幼少のころより学問を好まれ、12歳の時、小湊所在の清澄寺(せいちょうじ)にのぼって修学を続けられ、4年後、住職・道善房(どうぜんぼう)のもとで得度(とくど)、僧名を蓮長(れんちょう)と授けられました。清澄寺の本尊(ほんぞん)、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)に「日本一の智者(ちしゃ)たらしめよ」との祈願をかけられ、満願(まんがん)の日にご利益を感得(かんとく)されて以来、比叡山(ひえいざん)や奈良に遊学(ゆうがく)され諸経(しょきょう)、諸宗(しょしゅう)の教えを究(きわ)められて、末法相応(まっぽうそうおう)の法華経本門八品(ほけきょうほんもんはっぽん)の教えの真実を顕(あらわ)されました。

建長(けんちょう)5年(西暦1253年)4月28日、聖寿32歳の御時、清澄山旭森(あさひがもり)より昇る朝日に向かって御題目(おだいもく)を唱えられ、立教開宗(りっきょうかいしゅう)を宣明(せんめい)されました。これより以後、日蓮(にちれん)と名乗られ、首府鎌倉(しゅふかまくら)に出て諸宗謗法(しょしゅうほうぼう)への法戦を繰り広げられます。「大難四(だいなんし)ヵ度小難(どしょうなん)数知れず」というご法難(ほうなん)の中にあっても弟子信徒を導かれ、ご弘通の手を弛(ゆる)められることはありませんでした。

立正安国論(りっしょうあんこくろん)』等での幕府諫暁(かんぎょう)を機に、迫害はいよいよ強まり、文永8年(西暦1271年)、遠国(おんごく)佐渡への流罪(るざい)の宣告を受けられましたが、9月12日(13日未明)、佐渡への途上で隠密裡(おんみつり)に命を奪うべく腰越竜口(こしごえたつのくち)の刑場に引きすえられました。役人がいままさに首斬らんとしたとき、不思議な天変が生じて役人一同は驚き恐れ、斬首はならなかったのでした。聖人は当初の宣告の通り佐渡へ御流罪になられたのです。

過酷な佐渡の地にあっても、聖人は『開目抄(かいもくしょう)』、『観心本尊抄(かんじんほんぞんしょう)』、『如説修行抄(によせつしゆぎようしょう)』などの最重要御書(さいじゆうようごしょ)をたゆまずお認(したた)めになり、本土の弟子旦那衆(でしだんなしゅう)を教導され続けられました。聖人の佐渡配流(はいる)の間、『立正安国論』に予言されていた通りの蒙古襲来(もうこしゅうらい)の危機が迫り、幕府の中に聖人放免の意見が出るようになりました。文永11年(西暦1274年)4月8日、赦免(しゃめん)により鎌倉に帰られた聖人は、あらためて幕府の謗法を諫暁されますが幕府は受け入れず、これを最後に聖人は鎌倉を去って身延(みのぶ)に隠棲(いんせい)されるのです。身延の地にあっては遠隔(えんかく)の弟子旦那衆をお手紙を通じて教導され、また身辺に御弟子衆を置かれて後世のためにその教導に尽くされました。

弘安(こうあん)5年(西暦1282年)10月13日、身延から常陸(ひたち)へと向かわれる途上、武蔵国(むさしのくに)(現在の東京)千束郷(せんぞくごう)・池上宗仲(いけがみむねなか)の館にて門下読経唱題(もんかどきょうしょうだい)のうちにご入滅(にゅうめつ)。聖寿61歳であられました。

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