門祖日隆聖人

門祖日隆聖人(もんそにちりゅうしょうにん)

当宗において「蓮師後身再興正導門祖日隆大聖人(れんしごしんさいこうしょうどうもんそにちりゅうだいしょうにん)」と尊称(そんしょう)させていただく、門流(もんりゅう)の開基(かいき)です。

ご生誕は高祖御入滅後(こうそごにゅうめつご)の104年目に当たる至徳(しとく)2年(西暦1385年)10月14日、奇(く)しくも高祖ご入滅の日の翌日です。越中国(えっちゅうのくに)(現在の富山県)射水郡浅井島村(いみずのごおりあざいしまむら)の桃井館(ももいのやかた)がご生誕地で、父君は桃井右馬頭尚儀公(ももいうめのかみひさのりこう)、母君は益子(とみこ)、門祖は幼名を長一丸(ちょういちまる)と称されました。

父君は長一丸を武将として世に出し、桃井家のさらなる隆昌発展(りゅうしょうはってん)の担い手たるべく期待しましたが、応永(おうえい)3年(西暦1396年)、12歳の長一丸は霊夢(れいむ)を見、出家を志します。当初、父君はこれを許されませんでしたが、乳母である妙女(たえじょ)は父君を説得し、得度の志を遂げさせたのです。

5月10日、門祖は越中国遠成寺(えっちゅうのくにおんじょうじ)に入り、慶樹院(けいじゅいん)を師として剃髪得度(ていはつとくど)され、僧名を深円(じんえん)といただかれました。

応永(おうえい)5年(西暦1398年)春、師の許しを得て京洛(けいらく)(京都)四条妙本寺(しじょうみょうほんじ)にある慶樹院の法兄弟(ほうきょうだい)、日存(にちぞん)、日道(にちどう)の両師を頼って上洛されました。以来妙本寺貫首(かんじゅ)・日霽上人(にっさいしょうにん)に師事(しじ)され、慶林房日立(けいりんぼうにちりゅう)の法名をいただかれました。この妙本寺にいおいて、存師(ぞんし)、道師(どうし)とともに、日像上人門下相伝(にちぞうしょうにんもんかそうでん)の日蓮教学(にちれんきょうがく)を研鑽(けんさん)されることとなります。

しかし一方において、当時の妙本寺は行規(ぎょうき)が乱れつつありました。ことに日霽上人ご遷化(せんげ)の後、上足(じょうそく)の月明(がつみょう)が法燈(ほつとう)を継いで以来、慢心家であった月明のもと、寺内では行学共(ぎょうがくとも)にいよいよ乱れました。月明は高祖以来列祖(れつそ)の伝承を破って本迹一致(ほんじやくいっち)の邪義(じゃぎ)に赴き、本迹勝劣(ほんじゃくしょうれつ)の正義派を圧迫しました。これによって、存道(ぞんどう)両師と門祖を含む正流(しょうりゅう)の七人は退山を余儀なくされたのです。

その後あらためての諫暁(かんぎょう)も月明は受け入れることなく、存道両師は京都・妙蓮寺(みょうれんじ)を復興して像師(ぞうし)の遺跡を顕彰(けんしょう)すべく努められ、門祖は日蓮諸寺(にちれんしょじ)を歴訪(れきほう)して御妙判(ごみょうはん)を拝写聚集(はいしゃしゅうじゅう)され、高祖教学の蘊奥(うんのう)を究(きわ)められました。

応永22年(西暦1415年)、諸寺巡歴(じゅんれき)から帰洛された門祖は、仏光寺(ぶつこうじ)通りに本応寺(ほんのうじ)(後に本能寺と改名)を建立(こんりゅう)してここを弘通(ぐづう)の道場とされました。その後も妙本寺月明との軋轢(あつれき)は続き、月明は門祖の命をねらうほどの怨嫉迫害(おんしつはくがい)を加えてきましたが悪謀(あくぼう)ならず、難を避けて赴かれた先々で、門祖の教線(きょうせん)はさらに拡大していきました。

京都に再興された本能寺、尼崎の本興寺の二大本山を始めとして、各地に巡教されて建立された寺院は14ヵ寺を数えます。赴かれた先では数々の現証をあらわされ、それによって一村(いっそん)全体が教化(きょうけ)になるなど、学徳のみならず経力現証(きょうりきげんしょう)による布教をされました。教線は東は三河(みかわ)・駿河(するが)地方、西は山陰(さんいん)を経由して備前備中(びぜんびっちゅう)、淡路島を経由して四国地方、南は南河内(かわち)から堺、北陸方面は近江(おうみ)・敦賀(つるが)を経て加賀(かが)・越中(えっちゅう)にいたる広範囲に及びました。

こうした活発な弘通活動と並んで、早くから宗学(しゅうがく)のご著述(ちょじゅつ)にも取り組んでこられましたが、宝徳(ほうとく)2年(西暦1450年)、御年65歳のとき、後進(こうしん)の育成を期して本興寺塔頭(たっちゅう)に勧学院(かんがくいん)を創立され、御自身もまた本興寺内文庫堂にあられて八品(はっぽん)教学の集大成につとめられ、三千余帖に及ぶ大部の御著述を遺されたのです。勧学院の修学僧たちに気を配られ、夜分には門祖御自ら茶を入れて差し入れられたという逸話も残っています。

寛正(かんしょう)5年(西暦1464年)2月25日、御年80歳のとき、端座合掌(たんざがっしょう)の姿で御題目をお唱えになられながらご遷化(せんげ)になられました。日蓮聖人御入滅後、教えの混乱を正しく導いてもとの清流にお戻しくださった御恩により、「蓮師後身(れんしごしん)(日蓮聖人のお生まれ変わり)再興正導(さいこうしょうどう)の師」と仰がせていただいているのです。

One Response

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です