簡単に言うとこんなお話
コロナ禍の中、大学卒業と同時に希望の会社に就職できる御利益を頂く
私は、今年(令和3年)の3月に大学を卒業しました。コロナ禍で、就職活動をするのが少し困難になりました。そんな中、学校から「製造オペレーターの仕事に興味はありませんか?」と、とある会社を紹介してもらいました。元々、機械を「見る・触る」といったことが好きだった私は、その会社の面接を受けることにし、内定をいただくことができました。
コロナ禍の中、すんなり就職が決まったのも「御宝前様のお導きがあってこそ」だったと思います。さらに、その会社は関西を中心に業務展開しており、徒歩で通える距離にある工場に派遣が決まり、本当に大きなご利益をいただくことができました。
ご信心を始めるようになったのは祖母の影響が大きかった
そもそも、私がご信心に励むようになったのは、私にとってはとても大きな存在である、祖母の教えによるものでした。祖母は50代の時、脳梗塞で右半身を麻痺してしまい、歩くのも手を自由に動かすことも困難になってしまいました。それでも一人で歩いてお寺に参詣するとても熱心な信者でした。
生まれてからずっと本門佛立宗の信者として育った私は、小さいときは、お寺に行く理由がわからずよく駄々をこねていました。私の地元は奄美群島の中の徳之島という小さな離島です。佛立宗のお寺が一つしかない田舎でした。今思えば、お寺がすぐそばにあることは幸せなことだったのだと思います。
そんな私がご信心をしっかりさせていただこうと思うようになったのは、生まれ故郷の離島を離れ、鹿児島に下宿をして高校へ入学し、高校生活を送っていた時、ある理由で高校を転入するか迷っていた時期のことでした。自分ではどうすればいいかわからなくなっていた時、祖母と母に「百本祈願(合計百本のお線香分、御題目を祈願口唱させていただくこと)させていただきなさい」と言われ、嫌々ながらも百本祈願をさせていただくことにした私は、一日5本、二十日間ゆっくりでもやっていくことにしました。するとお線香の本数が増えていくと同時に気持ちが少しずつ軽く楽になっていきました。
そして、鹿児島の高校では、お寺へのお参詣や御宝前へのお給仕、日々御題目をお唱えしづらい環境にいたこともあり、地元の徳之島の高校に転入することを決めました。祖母が昔から「御宝前は、いつでも自分のことを見守ってくれている。辛いことがあったら心の中でも御題目を唱えなさい」といった意味を理解することができるようになりました。
大学進学の為に大阪へ。清風寺へお参りするようになり、大切な仲間に出会う
その後、高校を卒業し、大学で大阪へ出てくることとなり、祖母の妹のすすめで清風寺にお参りするようになり、当時の責任御講師から青年会を勧めていただき、二連合所属で同い年の牛尾君と知り合い、牛尾君に引っ張られながら、青年会の御講やご奉公などさせていただくことができるようになりました。これも、ご信心のおかげ、御宝前のお計らいだと随喜しています。
昨年、祖母が大勢の家族に見守られ、帰寂しましたが、祖母もずっと見守ってくれていると思うので、祖母が安心してくれるように、これからもお参詣、ご奉公、ご信心に努めていきたいと強く思っています。