以下、平成二十三年に開催された婦人会主催の『御宝前のお花の講習会』の記録の中から、西村宣子大奥様が淳風院様のことについて語られた部分を抜き出してまとめたものです。
私、お話しするのは、本当に上手でないので、苦手なのですが、今日は淳風院様に」お仕えして二十七年間、何も出来ない私を仕込んで頂きました事をお伝えできればと思います。特にご宝前のお花の入れ方など、どのようなことも、とても良く出来るお方でしたから。その中から少しお話しさせていただきます。
私は、東京から二十一歳で、清風寺へ嫁いでまいりました。何もかも、本当に大変な修行だったのですが、特にご宝前のお花の事は、淳風院様から、心を込めてさせていただくことを厳しく教えて頂きました。
焼け野原の中の仮本堂から
私がこちらに参りました時は戦後で、焼け野原に、ポツンと清風寺の仮本堂(十八坪)が建っていました。大阪駅まで全部がずーっと見渡せるようなところで、的場さんが道の向側に、小屋みたいに建てられていました。大阪駅までの、途中に「馬の水飲み場」があるようなそんな時代で、本当に、何もない焼け野原でした。
御佛飯のご利益
そのような時代ですから、ほんとに何もなくて、お佛飯もあげられなかったのです。その時、的場歌子さん(滋朗さんのお母様)が、
「お佛飯があがらないのは、勿体ないので、一口運動をやりましょう」
と声をかけて、一握りのお米持ち寄り、本堂のお佛飯をあげさせていただいたのです。
即日、不思議なことがありました。日地上人が、南方の戦地に行って帰ってこられており、マラリアで一週間に一回ぐらい熱が出て、身体が震えて大変でしたが、本堂にお仏飯をお供えさせていただいたその日から、マラリア熱は、パシッと止まってしまいました。ほんとに不思議なご利益をいただかれました。日地上人は「これがご利益だ、ご利益だ」と喜んで言っておられました事を思い出します。
本堂のこと
この本堂、出来まして四回目の本堂なるのですが一番初めは十八坪、その次が淀川べりにあった、格納庫を持ってきて二番目の本堂になりました。六十万本堂と言われていましたが、その六十万円のお金が無くて、淳風院様は、
「私の着物を売ってでも、格納庫を手に入れなさい」
と、言われていました。それをお聞きして、
「私も帯を売りましょうか」
と申し上げますと、お嫁に来た人のを売ってもらっては、私が困ると言われ、ご自身の着物を大島から何から何枚も売られたのをみておりました。その頃、一枚四百円位だったと思いますが、お金を集めて二番目の本堂が出来ました。
その後、その本堂は、壊すのは勿体ないと言うので、そのまま寝屋川墓地の現在の回向堂あたりに移築されていました。三番目の本堂がこの間まであった『東大の岸田先生が設計された赤レンガの本堂』のものです。
日淳上人と淳風院さま
私が覚えておりますのは、戦後、戦炎で焼けてしまって一年程たった頃のことからですが、日淳上人というお方は、本当にご信心一筋、真面目の塊のようなお方で、戦時中でも「清風寺は焼けない」という「信念」がおありになって、なかなか疎開していただけなかったとお聞きしました。周囲の方もハラハラしておりましたが、淳風院さまが、
「もうどんどん近くまで焼けてきております。この辺りも危ないですから、どうぞ寝屋川に疎開していただきますよに」
と説得されようやく、戦火で焼ける前の日、大八車にご戒壇と整理だんすを一本持って寝屋川に疎開されたのです。今の九階のご宝前が、その時の昔からの紫壇のご宝前と、象に乗っている大きな花器と燈篭です。
「清風寺は焼けないといわれ、残してきた箪笥7本位は、全部焼いてしまったわ」
と戦後、淳風院様が、述懐されていました。
その後、日淳上人と淳風院様が、このような所に住んでおられろのはいけないと、寝屋川から京都の本山のご法宅の方へお移り頂いたそうです。本山で日淳上人と淳風院様は一年間ほど過ごされました。
日地上人が昭和二十一年三月十一日に、清風寺に帰山され、その年の秋、十一月四日に私が乗泉寺から嫁いでまいりました。それから、
「日淳上人、淳風院様が、いつまでも京都に住んでいただいたままでは申し訳ない、一日も早く清風寺の方にお戻りいただかないとだめだ」
というので、清風寺の方に、当時植山局長さんに、八畳と六畳と玄関四畳半のご法宅を、建てていただきました。そこに、日淳上人と淳風院様にお戻りいただきました。
何事にも徹底したお方
私は結婚当初は、渡辺さんというおばあさんと二人で住んでいましたが、日淳上人、淳風院様が戻られてから、私の修行がはじまりました。お花のことでしたが、、、夜のお看経は、家族全員が並んでいただく世にということで、私は一番端に座っておりますと、
「宣子、あのお花を抜いて」
と、淳風院さまが声をかけられます。お花をご自分がきっちり気にいられるまで、これと、あれと、と言われながら抜いては、お花を入れかえさせていただきました。私は小原流のお免状を持って参りましたが、
「三越のそばにある家元の所へもう一度行きなさい」
生け花のやり方がお気に召されなかったのでしょうか、
「もう一度習って、そこからご宝前のお花を入れると、隙が無く出来るようになりますから。ただ花屋から買ってきて、突っ込んでいるのはだめ。いれて、格好がよいのでないといけないから」
と言われました。淳風院さまは、何事にも通じて、とても徹底されていましたので、出来るまで座っておられたのです。本当に毎晩、昨日も変えたのに、また、ご自分の気に入るところまで直されるのです。私はたいへんでしたが、淳風院さまはそうして私を仕込んでおられたのですね。
淳風院さまはご信心が第一で、ご宝前はお花とお線香しかないって言われました。お線香は昔からお師匠様日聞上人が『あずさ』と言うのがお好きで、決めておられました。日淳上人も『あずさ』を使っておられました。香りがいいのです。法宅では、今も『あずさ』と普段の両方使っております。
日淳上人という方は、お師匠様日聞上人のなさった事をずーっと大事にされていました。召し上がるものでも、日聞上人がお好きだったからと、独特の臭いの『鮒ずし』をご自分でも召し上がるようになさった方なのです。このお話は皆様もよくご存知のことですが、私がお給仕させていただいて、ほんとにお師匠様をこれだけ思われてご奉公されたお方はおられないと思いました。
淳風院様のおもてなし
日淳上人は口数が少なく、あまりお話をされないお方でしたから、その為、清風寺をこれだけ大きくなさったのは淳風院さまの影のお力なのでした。あちこちのお寺のご住職がお見えになると、お酒を出して、お食事を出して、どなたでもお客様が来られたら、軽い物でも何でもお食事を召し上がっていただきなさいと言われました。だから、私のものなど食べないで、全部お客様にお出しておりました。
そういう風にして、ご供養、ご供養と、徹底したおもてなしの方でした、お料理もお上手でした。お料理は、日淳上人が京都に居られても、大阪に居られても、戦争の前からだと、うかがっておりましたが、
「ちょっと食べに連れて行ってください。そうしたら真似して作りますから」
と言って、時々はお店に行かれ、帰りには五条坂(京都)の瀬戸物屋に寄って、器まで探して買って帰られたのです。そしてその後、同じような完璧なお料理を作って出されたそうです。本当に徹底した凝り性の方で、私がこちらに嫁いでくるときにも、
「和裁は袴まで縫える様にしてくるように」
といわれたのです。お裁縫は四年位習っておりましたが、二十歳で、袴まで縫える様にして来るように言われましたので、父の物がほどいて洗い張りしてあったのを、袴一枚仕立ててまいりました。
どんな事でも出来なかったら、人間はだめだという意識の強いお方でした。
お裁縫も、誰もが苦戦する程の『褄(つま)』も、物凄く上手に縫われていました。そのうえ、日淳上人とお導師、弟の淳信師とご自分の四人分の着物は板張りと伸子針を張って、全部ご自分で仕立て替えをされ、他の方には他の方には頼まれなかったとうかがいました。出来る人が傍に居られると全く何も出来ない自分に思えました。
「宣子には何も縫って着せてもらった事がない」
と言われますので、袷わせの着物は縫ったらすぐ批評されますので、寝巻を縫って、着ていただきました。
本当に女の方でこれだけ出来る人は才女ですね。昔の方は偉いと心の中で思いました。
「なんでも出来なければ人を使っていかれない」
と言われました。お料理、お裁縫はもちろん、御三味線も子供の頃から地唄をいろいろ弾いて唄われるのです
私も少し長唄を習っておりましたので、
「あんたが弾いてみて、私が唄うから」
と言われて、『やりさび』でも何でも唄われるのです。私は譜を見ながらどうにか、弾けますので、お相手をさせていただきました。とくに昔は、趣味といっても、何もない時代でしたが、地唄を上手に唄われました。
「とお(十歳)ぐらいから習って、どうしてそんなに覚えておられるのですか、清風寺へ来られてからはなさってないのに」
とお聞きしたことがありました。
「和裁のお稽古から帰ってきてから、十曲ぐらい弾いていた」
と言われました。聞いておどろきました。だからみんな覚えておられるし、楽しみにしておられるのだと思いました。
亡くなられる十一日前のことですが、休んでいる床に、御三味線を持っていき、横に持たせてさしあげると、「黒髪」を懐かしそうに、思い出すように弾いておられたのですが、お疲れになられたのでしょう。
「もういい」
って言われて、休まれました。
とにかくなんでも出来なくてはいけないと、いつもお話しされておられました。頭がいいのですね。清風寺にたくさんお客様がこられて「ありがとうございます」と挨拶されたら、その姿の後ろの頭の向こうまで読んでしまわないとだめ、といわれるのです。
とにかく素晴らしい女性でした。どうしようかと思うことも、一つ一つ、本当に厳しく教えていただきました。二十七年間お仕えさせていただき、今は何もかも感謝々々で暮らしております。